舟山和秀のブログ

ときめきと安らぎに彩られた素敵なひと時を

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叙述における本質とは何なのか

エッセイは難しい。

説得でも解説でもなく、ただ自分の心をタイプするだけの作業がとてつもなく難しい。

体験と感想。この二つ、たった二つだけの関係を描写することが出来ない。

遭遇した事実とそれについてどう思い感じたかという自分との関係。

「今日は有名なレストランで食事をとり、とても美味しかった」

たとえば、これは文章として成立しているかもしれないが、エッセイとしての面白さを湛えているとは言えないだろう。

事実関係という言葉があるが、自分の心の動きもまた事実であるにもかかわらず、自分の外で起こった事実との関係を明確に取り持つにはどうすればよいのか。

実験的な試みとして、ひとつの手法を思いついたので備忘的ではあるがここに書いておくことにする。

「今日は有名なレストランで食事をとり、とても美味しかった」

という文章は確かに面白くもなんともないが、要約として及第であったとする。

そもそも及第に至る要約を抽出する事自体簡単な事ではないが、とりあえずこれでよしとする。

これを単語ごとに分解し、各々の単語に文を補うことで心のなかで形作られている本来の姿に復元する。

そしてこの時に意識して葛藤というものを盛り込みたいと思っている。

一般的に物語、つまりフィクションには葛藤が根本軸として必要であるとその道の教科書には例外なくそう書かれている。

エッセイはノンフィクションであるから葛藤は必要ではないのかもしれないが、そもそもフィクションとはノンフィクションを模して創られるものではないだろうか。

「むかしむかしおじいさんとおばあさんが…」この書き出しのどこに不誠実な虚偽があるだろうか。

現実の日々に葛藤が存在しないのであれば、人々はどうして物語を作り得ようか。

そして、今、私は長い間芽の出ない創作の真似事を続けてきた中で、どうしても描くことの出来なかったこの「葛藤」を現実に立ち返って自らの心の迷いを整理し、描けるようになることを自らに課したいと思っている。

例としてこの文に分解と再構成を同時に行い、予定調和に葛藤を追加する。

「今日は有名なレストランで食事をとり、とても美味しかった」

(人生で初めて原稿報酬が振り込まれた日である)今日は

(大勢の批評家が雑誌で高く評価している)有名な(かつての親友が経営している)

レストランで(一番高価なメニューの)

食事を(一人きりで)

(案内された店の隅のテーブルで、彼に裏切られたあの日を思い出しながら)とり(、そして自分が依頼された次の批評文がこのレストランについてでであることを思うと)。

とても(形容できない感情がわきあがり)

美味し(さというものは、自らの心が決めるものだと)

(わ)かった。

 

説明用のこじつけだが、次回から少し試してみたい。