舟山和秀のブログ

ときめきと安らぎに彩られた素敵なひと時を

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何者とも関係性を持たない生命体に生きる意味はないのか。

読了した。

死を語る (PHP文庫)

死を語る (PHP文庫)

 

 巻末「死と家族ー文庫化によせて」より

家族とは、死にたいほどの絶望の中でも「死んではいけない」と囁きかける、ある意味、重い重い約束なのだ。家族になった以上は、相手に対して「生きる責任」が発生する。そして人は、それを「生き甲斐」に転じることもできるのである。

 野生動物と違って、人間は独りでは生きていけない生き物だ。他社との関係性の中で己を確認し、良くも悪くも「しがらみ」に生きる社会的生物である。その「社会」の最小単位が「家族」なのだとしたら、我々は生きる意味を見つけるために家族を作るのかもしれない。

 私には家族がいない。

 そして私のイキガイは不道徳な悪業の中にあり、当然に他者との本質的に善良な関係性を拒絶する。

 家族がいない事は説明を待たないが、自分のエナジーの源泉が自分自身に放散する事のみに湧き出ている事を最近知りった。これは自分さえよければ良いという事を超えて自分だけが良くなる事にしか関心が無いという事である。この行きつく先が不道徳な悪行であり、一言で言えば破廉恥である。

 私が自死を選ばない理由は大きく言って二つある。

 この二つは宗教的死後が無い場合とある場合に分かれる。

 まず一つは宗教的死後が無い場合、自己の消滅とともにやってくる虚無に対する恐怖から。

 もう一つは宗教的な輪廻のなかで苦しみや役務を全うせずに死んだ場合、初めからまたやり直しをさせられる可能性を感じている恐怖から。

 どちらに転ぶにしても、よくない未来しかなく「もう生きていても仕方ないな」と思いながらも僕が自死を選ばない理由である。

 あと、一度ふとんの中で窒息しかけた事があって、その時強烈に苦しかったという事もあるが。(実際、本当に苦しいらしい)

 しかし、自分で決断しなければ永久にその時はやって来ないかと言うと、もちろんそんなことはなくって、あきらめなくても試合終了の時はやってくる。

 自分が家族をもたなかった事は、自分に初めから他者との善良な関係を持とうとする欲求が存在しなかった事に起因していて、だから自分としてはそれで満足だったのだが、そうは言うものの自分も家族を持って子供を作るという事には不自然な未練を感じているとともに先に触れた人生の役務だとも考えているので、成仏というか死後のやすらぎというものも既に生前から失われている気もする。

 話は変わるが、長年飼っていたいたペットが死んで悲嘆にくれるのは仕方ないとしても、墓の問題(人間と同じ墓室にいれる事ができない。土地の転売で勝手に暴かれて廃棄されてしまうなどの問題)に悩んでいる人がいる。

 僕は犬や猫に心や魂が存在すると思う一方、それは牛や豚やライオンやシマウマにもあると思っていて、首に鎖をつけたり子供が産めないように勝手に体をいじったりして自分の管理下においた動物には著しい共感を示しながら、その他の動物には何の関心もしめさない人達というのがわからない。

 僕も牛や豚は食べるし、それはおいしいからであって、生命を維持するためには動物性の栄養がなくても可能なのだから、生きるために必要だから食べているのではない。つまり、僕は食道楽という娯楽の為に生き物を殺しているのだが、そういうものだと思っている。

 他方で人間の手の入らない世界では弱肉強食の食物連鎖と言う名の殺し合いが行われていて、食うか食われるか殺すか殺されるかの地獄の中で動物は生きている。

 彼等の魂は死んだからと言って誰からも供養されないし、それは僕が死んで僕のあとに僕を知る親戚がみんないなくなったあとに同じである。

 

 僕はすでにどこに行くこともできないけれど、少なくとも僕は僕の為には生きていきたいと思う。

 そして、できれば一つでも二つでも自分以外の為に生きて行える事があればやっていきたい。それが少なくとも人間という存在に与えられた幸福への道のりだと思うからだ。

 

 最近、会社の鉢植えの観葉植物に水をやるようになって、気のせいかもしれないが彼らからも心を感じるようになった。